事前学習資料

「先人に学ぶ共生都市たかさき創造の歴史(1)−内村鑑三を中心として」

飯岡秀夫理事(高崎経済大学教授)

内村鑑三の思想形成と上州


鑑三と「上州」および「上州人」  ― 本稿のテーマと企図 ―

 高崎公園の内村鑑三(以下、鑑三と略す)記念碑には、次のごとき、鑑三自作の漢詩が刻み込まれている。
   上州人
 上州無智亦無才 剛毅木訥易被欺 唯以正直接万人 至誠依神期勝利
                              鑑三
 上州人は無知にして無才である。剛毅木訥で人にあざむかれやすい。すべての人にひたすら正直に接する。そのまことこの上なきにより神の勝利に出会うのである。

 ここには鑑三の「上州人」に対する愛憎がにじみ出ている。自分をつくづく「上州人だ」と感じたもの以外、このような詩はつくれないはずだ。堀川寛一氏は「上州と内村先生」という小文で、鑑三の「身体に流れている血が上州人のものであったことは、たしかである」と言っているが、その言葉は的を得ているといわざるをえない。

鑑三がいかに自分を「上州人」と思い、いかに自分の内なる「上州人」を愛憎していたかは、「私は上州人である」という短文にも、如実に表現されている。

 「私は上州人である。ゆえに腹の中にあることを隠すことができない。上州人には秘密はない。秘密はあり得ない。その点において上州人は他の日本人、ことに中国人などとは全く異う。……上州人は日本人の内で最も劣悪なる者である、然るに神の恩恵に由て私は少しく神の深い事を知るを得て感謝である。キリストの十字架の下に立ちて、己が罪の為に泣いたことの無い人は私の心を窺い知ることが出来ない」(「私は上州人である」『内村鑑三信仰著作全集』以下『信』と略す――12・九二頁)。

 ここから、鑑三の「上州人」への愛憎が彼の罪意識と深くかかわっていることをうかがい知ることができるであろう。この鑑三の罪意識とかかわる「上州人」への愛憎と関連して、鑑三と「上州人」とのかかわりを表す、もう一つの言葉を紹介しよう。それは鑑三の罪意識の形成において決定的な役割を果たしたと考えられる、彼の最初の妻、浅田タケについての言葉である。鑑三は親友宮部金吾に彼の妻になるであろう女性浅田タケを次の言葉をもって紹介している。

“One point thou mayst object at,i.e. She is also a 上州者.”「君が反対するかもしれない一点がある。それは彼女もまた≪上州者≫であるということである」。

 鑑三と浅田タケという<上州者>同士の結婚は、後に論ずるように不幸な結末をみることになる。鑑三が「上州」および「上州人」をことさら無視しようとし「上州の自然」を讃美するようになるのは、おそらくこの不幸な結婚・離婚体験によると考えられる。

ここに鑑三の「上州」および「上州人」に対する決定的な言葉がある。

 「余は上毛の地に何の負うところなし。その人物は余のおおむね尊敬を表すことあたわざるところ……今日の上州人なるものは多く軽躁浮薄の徒、彼らは侠をもって誇るといえども、西南人種の驕をくじくの勇気なく、喜んで九州人の教化にあずかり、節を売る、肥人のごとく、信を破る、薩人に類し、関東人にして自由平等の使命を忘却せし者となれり」(「過去の夏」『信』2・一八〇頁) 

 「余は上毛の地に何の負うところなし」という鑑三の言葉にもかかわらず、鑑三は彼の思想形成において、次の三点で決定的に「上毛の地」に負っている。

その第一は鑑三が文久元年(一八六一)に高崎藩士内村謹之丞宣之の長男として誕生したという事実に由来する。鑑三が父母の庭訓と藩の学塾を通じて武士階級の教養――儒教思想を柱とする「武士道」の精神、そしてさらにいえば「大和魂」――を身につけたことは疑いない。そしてそれは鑑三の思想形成の上で大きな役割――思いきって言えば鑑三思想の母胎の役割を演じているのである。

 その第二は「上州の自然」である。「上州の自然」について鑑三は次のごとく語っている。

 「余の家は時に上州高崎にありて、余はいつしか殺生の快楽をさとりたれば、夏来たるごとに余はその付近の山川に河魚の捕獲に余念なかりき。……余の天然学に心を寄するに至りしは実にこの時における余の水族の観察に基づけり。…… は鮎と同じく日本群島特産の魚類にして、大和魂と共に世界に向かって誇るに足るものならん。……ああ幸福なりし時よ。余の師と父とは遊惰を責めたり。されども彼らは余がこの時いかなる大学問をなしつつありしかを知らざりしなり。……魚類…彼らは余を造化の霊殿に導けり。彼らを通して余は余の造化の神に詣れり。余は上州の地と人とを忘れるべけれどもその魚類をば忘れざるべし」(「過去の夏」『信』2・一七七〜一八一頁)

 鑑三はアメリカ社会とそれを通じてのキリスト教文化への絶望のなかで、日本の文化と自然の素晴らしさを、アメリカ体験のさなかで確認している。鑑三がアメリカの地で故郷日本に見たものは、堕落(キリスト教文化=アメリカ社会)以前の、純粋にして無垢なる精神と自然であった。鑑三の「無教会」の思想が彼のアメリカにおける日本再発見にその源を発していることは疑いえない。そして、鑑三がアメリカで思い浮かべたであろう堕落以前の「無垢なる自然」の原点には、「上州の自然」が位置していたはずである。その意味において鑑三の「無教会」の思想は、彼が幼少の頃なれ親しんだ「上州の自然」の想念と深くかかわっていると考えられる。

 その第三は「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべからず」という鑑三自身の言葉を裏切って、決して忘れることができないであろう、二人の「上州人」との出会いである。

 その二人の「上州人」とは、新島襄と浅田タケのことである。「上州の自然」は忘れることができたとしても、鑑三にとってこの二人は決して忘れることができない人物であるはずである。

 浅田タケは鑑三の最初の妻であり、一女を懐妊しながら結婚生活一年を経ずして離婚するに至った女性である。鑑三自身は浅田タケとの離婚のいきさつについては口を閉ざして語ろうとはしていない。しかし、そのこと事体が、浅田タケとの結婚・離婚の体験が鑑三にとってどれだけ深刻な体験であり、鑑三の思想形成にとって、どれだけ大きな役割を担っていたかを雄弁に物語っている。

鑑三は浅田タケとの結婚・離婚体験を主体的に反省しつつ、彼の思想形成をなしていったとさえいえるほどなのである。後年鑑三は、宮前右太郎に次の手紙を送っている。

「小生が浅田家と関係を持つに至りしは小生の身に来りし最大不幸には御座候得共、然し更に深く考うれば、これ神の大なる摂理に由りし事と存候。これなかりせば小生は断然今の基督教会なるものと断つ能わざりし事と存候。従って小生が此世に在ってなすを得しすべての善事(甚だ軽少なるものなれども)は小生の身より出でざりし事と存候。浅田家は小生に大なる傷を負わしめしも、小生はこれがために多少神の益僕となるを得て感謝の至りに存候」

 また鑑三は後年、その娘ノブ(浅田タケと鑑三との娘)に次のごとく語ったという。

 「教会の人たちは、『淫行のゆえならでその妻を出す者は、これに姦淫を行わしむるなり』といってぼくを総攻撃したが、この聖書の真の意義を探るのが、ぼくのアメリカに行った目的の一つで、あちらで研究の結果、『よし、他に男を持たずとも夫を夫とも思わぬことは明白な姦淫罪である』との解釈を得て初めて心を安んじた、お前の母が貞淑な女であったならば、ぼくは一教会の牧師ぐらいで終ったであろうが、おかげでこんな大きな仕事ができた。しかし彼女に感謝することはできない。」

 上州の女性浅田タケとの出会いは、鑑三にとって「神の大なる摂理」と思われるほど深刻な意味をもっていたのである。浅田タケに洗礼を施し、彼女と鑑三との結婚の最後の詰めをとったのは新島襄であった。鑑三は新島襄のとりなしにより、結婚・離婚体験という、主体的に実存をかけてキリスト教に立ち向かう契機を与えられたといえる。鑑三が浅田タケとの結婚・離婚経験を契機に実存をかけてキリスト教に取り組み、ついに真の回心を経験しえたのは、アマスト大学においてであった。そして鑑三にアマスト大学への紹介の労をとったのは、他ならぬ新島襄であった。新島襄は結婚・離婚体験と、アマスト大学での回心体験という二つの重要体験に間接的にかかわっている。

 「高崎藩の学塾と高崎藩士たる父親の庭訓」、「上州の自然」、「新島襄と浅田タケという二人の上州人との出会い」、それらはざっとみてきたように、鑑三の思想形成と深くかかわっており、それらなくしては今日の鑑三思想はありえなかったはずである。

(中略)


鑑三の思想形成と上州 − 鑑三の結婚・離婚体験を中心として −

 筆者は第一節で鑑三と上州のかかわりを三点に要約した。本節では、鑑三の思想形成とこれら三点がいかにかかわっているかを論じ、もって本稿の結びとしたい。

鑑三の思想形成の母胎となったのは、父親の庭訓と藩の学塾によって培われた武士階級の教養であった。鑑三が高崎藩士たる父親と高崎の学塾を通じて身につけた武士階級の教養――「武士道の精神⇒大和魂」――のなんたるかについては、次の引用からうかがい知れる。

 「私の父はりっぱな儒教学者で、聖賢の書物や言葉はほとんどそらんじていた。それゆえ私の初期の教育は自然その方針に沿っておこなわれた。私にはシナの聖賢の政治道徳的な教訓はよく理解できなかったが、しかし儒教のおおよその気分は深く私にしみこんだ。藩君には忠義を、親師には忠誠と尊敬とをこれがシナ道徳の中心題目である。(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』《以下『余は』と略す》『信』2・七頁)。

 忠と孝。鑑三の場合には孝と忠。鑑三はアメリカで書いた最初の論文「『大和魂』(『日本精神』)の道徳的特質」で、「親への孝」、「目上の者への忠」、「親下の者への愛」をもって「大和魂」の顕著な特徴であるとしている。鑑三は、福沢諭吉とは対照的に、幼少の頃父母の庭訓と藩の学術で身につけたこれら儒教道徳を高く評価している。

 「それら儒教の教訓は、多くの自称クリスチャンに授けられ、またいだかれている教訓に比べて、少しも劣るものでないと私は確信している。」(『余は』『信』2・八頁)。

 キリスト教と出会い、洗礼を受けた後も、鑑三の倫理規範は転換した様子がない。つまり、鑑三の生来の武士道的倫理規範とキリスト教的倫理規範とが矛盾なく同居している。これはこの段階における鑑三がキリスト教を「実存者の倫理の問題」として把握していたことの証しである。

 鑑三は浅田タケとの結婚・離婚体験を通じて初めて両者の倫理規範の衝突を経験し、そこから主体的にキリスト教にかかわり始めたのではなかろうか。その点に関して中沢氏の次の言葉は、非常に興味深い。

 「時においても、教友たちの多くが彼らの態度を非難し、また新島が最後まで復縁に尽力したのも、単に個人的な友情や責任感からのみでなく、いわばこの事件を基督教倫理と武士道倫理との葛藤のテスト・ケースと見たからではあるまいか。……端的にいえば、内村のこの事に関する処理の仕方が基督教的であるよりも、むしろ武士道的潔癖に基づくものではなかった。」

 鑑三が彼の主観においてタケの精神的不貞――心が夫から離れたこと――の根拠を「越前疑惑」と「『勿語』返答」の二点に求めていたことは第三節で示した。

 「一度ビ家ヲ出シナラ之最後ノ証ト見留メテ宜シキヤト伺シニ勿論トマデ返詞有之」。

これをもって妻に罪ありとする鑑三の態度はあまりに武士道的(「武士に二言ナシ」)ではないか。鑑三をしてこのような態度をとらしめたのものは、キリスト教的倫理というよりは、むしろ武士道的倫理ではなかったか。しかも鑑三は彼の良心と聖書の言葉に照らして妻との離縁にふみ切ったという。ここで問われねばならないのは、妻に罪ありとし鑑三をして離縁にふみ切ることを許した鑑三の良心の質である。その場合、彼のよって立つ「良心」とは、キリスト教的良心ではなく儒教的良心ではなかったか。

 鑑三の「アメリカ体験」とは、彼の儒教的良心からのキリスト教的良心への転換の経験であり、そのきっかけをつくったのが、彼の結婚・離婚体験であったと筆者はみる。別言すれば、鑑三は彼の結婚・離婚体験を契機に、主体的に実存をかけてキリストの教えに直面し、アメリカにおける真の挫折(うちくだかれた魂の経験)を通じて回心したと筆者はみる。

 結論を急ぎ過ぎた。ここでまたもとに戻って、鑑三の回心に結婚・離婚体験がいかにかかわっているかを検討しつつ、鑑三の思想形成の核心に迫りたい。鑑三の思想形成にとって重要なヒントを与えてくれるのは、次の言葉である。

 「私は自分のうちに一つの空虚な個所のあることに気づいた。それは、宗教事業に活躍することによっても、科学実験に成功することによっても、満たされないものである。この空虚の正確な性質が何であるかを私は見きわめることができなかった。健康が衰えてきたために、休息と、らくな仕事とにあこがれたのかも知れない。または、急に大人(おとな)になってきたために、伴侶を求める自然の欲求に抗しがたくて、こんな焦躁と空虚とを覚えたのかも知れない。いずれにしろ、現に真空は存在しており、それは、何とかして、何かによって、埋ずめねばならぬ。凛々たるこの宇宙の間に、自分に幸福と満足とを与える『何か』があると考えた。……この時以後、私の全精力は、この真空を埋ずめるという一つの仕事に傾けつくされる。」(『余は』『信』2・六二頁)。

 若き鑑三の心には「真空」(“Vacuum”)、あるいは「空虚な個所」(“an empty space”)が巣食っていたという。鑑三の思想形成はこの「心の真空」を埋めてくれる「何か」をつかむ過程、別言すれば「霊魂の中の真空」(『信』2・ニ七〇頁)が回心を経験することによって克服され、「心霊の自由」(『信』1・ニ六頁)を得るまでの過程にあったといえる。

 そして「霊魂の中の真空」ということに、鑑三の罪意識が深くかかわるのである。おそらく、日本思想史上で鑑三ほどに強い罪意識を持ち、罪の問題を問題にしつつ自己の思想を形成していった思想家はいないであろう。鑑三において、この罪意識はどこから形成されたのであろうか。鑑三の罪意識の形成において興味あるのは、鈴木範久氏の次の指摘である。

 「達三郎によると、鑑三は幼時、一人の弟と屋根に上っていた。それが、何かのはずみで誤って弟が転落死してしまった。鑑三と達三郎の間にも、また達三郎のあとにも、夭折した弟があったようだ。だが、その死因については定かではない。年齢のゆかない達三郎もこれを実際に見ていたわけではなかろう。それでありながら、この話を全然否定することもできない。鑑三の抱くことになる深い罪意識は、過失とはいえ、幼児のこの出来事と細い糸で結びつけることがまったく不可能ではないからだ」(鈴木範久『内村鑑三』岩波書店、八頁)。

 こうした後天的な経験と共に鑑三の罪意識の形成において見落としてはならないのは、彼の先天的な素質であろう。そもそも鑑三は少年時代に早くも「宗教的感受性」を身につけ、良心の苛責に悩まされたという(『余は』第一章)。鑑三の「宗教的感受性」は「あらゆる神仏をさげすさんだ」という父親の資質であったとは思えない。あるいは母親譲りであったのであろうか。鑑三のこの「宗教的感受性」の強さがキリスト教に出会うに及んで自分の罪の深さを自覚せしめ、彼の罪意識を増幅させたと考えられる。

 「余の初めてキリスト教に接するや、余はその道徳の高潔なると威厳あるとに服したり。余は余の不潔、不完全を悟りたり。余の言行を聖書の理想に照らせば、実に汚穢(おわい)言うに忍びざるものなることを発見せり。余は泥中(でいちゅう)に沈みおりしを悟れり。余は故意をもって人を欺きながら、余の罪人なるを知らざりき。余は虚言を吐くをもって意に介せざりき。余は他人の失策を見て喜び、他を倒してもおのれの成功せんことを願えり。余の目的は功名、富貴にありき。余は国を愛すと揚言しながら、余の野心を満たさんとせり。余は他人の薄情を責めながら、自信も常に他人の不利益を望めり。余は君子振(くんしぶ)りて実は小人なりき。余の目的は卑陋(ひろう)なりし。余の思想は汚濁なりき。これを思い、かれを思いて、余は実に自身に恥じ、もし穴あらば身を隠し、神にも人にも見えざらんことを欲せり。」(『求安録』『信』1・七一頁)。

 「余は偽善者なり。人を殺す者なり。姦淫を犯す者なり。盗人なり。しかして聖書なる電灯をもってなおも余の心中を探るならば、余は神を汚す者ならん。人を欺く者ならん――ああ聖書の言をして誤謬(誤謬)ならしめよ。余はかくのごとき光輝に堪たうるあたわざるなり。」(『求安録』『信』1・七五頁)。

鑑三は他人以上に「懐疑心」が強いといっては罪意識をもち、他人以上に「野心」が大きいといっては罪意識をもち、他人以上に「動物的貪欲」をもっているといっては罪意識をもっている。また鑑三の「宗教的感受性」の強さは、外的世界に対しても向けられている。自分の罪は自分の内面からのみに由来するのではなく、社会が汚れていることからも由来しているのだと。

 「札幌県に働くわれわれクリスチャン官吏は、圧倒的で横暴な≪県庁≫にとっては一大障害である。純真な良心をもち、真実と誠実とを心から追い求める人々は、到底こんな職場には堪えられない」(「宮部あてM・15・6・15付手紙」『日・書』5・三九頁)。

 「余をして罪を犯さしむるものは、余に存する罪のみにあらざるなり。余は罪に沈めるこの世界に来たり、いまだ神を信ぜざるこの国に生まれたり。余の境遇、余の社会は、余を罪に導くものなり。」(『求安録』『信』1・76頁)。

 しかし、鑑三の罪意識の形成にとってなんといっても決定的であったのは、浅田タケとの結婚・離婚体験であったと考えられる。鑑三はアメリカに渡って間もなく(明治一七年一二月二一日)、父内村宣之に次の手紙を書き送っている。

 「不運なる鑑三、今ハ異国ノ客トナリ、頭ヲ枕スル所ナク青海ニタダヨウ有様トナリ……血眼言語ナキニ至る。嗚呼主ヨ、我ノ罪ヲ許シ玉へ、我若シ再ビ国ニ帰ルヲ得ズバ、願クハ我弟ノ内一人ナリトモ我ニ替リ、我父母ニ孝養ヲ尽シ、我志ヲ続シ玉ヘ、我主ノ為ニ尽サント欲シ返テ主ニ向テ大罪ヲヲカシタリ、」(『日・書』5・一〇七〜一〇八頁)。

鑑三にあってタケとの結婚・離婚体験において犯した「大罪」とは何を意味するのであろうか。鑑三をして「大罪」を犯しめたものは、彼の「心の空虚」である。彼は彼の「心の真空」を埋めようとして「大罪」を犯したといえる。この点に関して鈴木範久氏は、浅田タケは宮部金吾の代替であったという鋭い指摘をしている。

 「ああ!時には君は僕の唯一の存在、僕の宇宙であった。僕の想像、心、知識、全我は君の中にとけ込んでいる。夜半おそく、喜びと涙と、祈りと願いとをもっていくたびか手紙を書いた時には、傍らの者は僕が気が違ったのではないかとさえ疑った。君もよく知る通り、僕は何一つ君にかくしていない。君は僕の全部――僕の肉体、霊魂、精神を知りつくしている。もしも僕が、ある人が無慈悲にも非難したように、僕の過度の愛ゆえに(僕の性質にそうした傾向があって不健全になり易いからというので)非難されるとしても、僕は君に、これこそ僕の愛であってそれ以外のものではない、と強く言い切ることができる。僕は誰をも君以上には愛さなかった。兄弟よ、兄弟よ、これが僕の心、僕の信仰である。すなわち、よし君が僕を殺すとも、僕は君の過失を許し、依然君を愛する。よし万人が君を見すてようとも、僕は君を愛する」(「宮部あてM・16・8・21付手紙」『日・書』5・五九頁)。

 たしかに過度にして常軌を逸した愛である。鑑三はこの宮部への愛をもって「心の空虚」を満たしていたが、宮部が先に結婚するに及んで、他の女性への愛をもって「心の空虚」を満たそうとしたと考えられる。

 「急に大人になってきたために、伴侶を求める自然の欲求に抗しがたくて、こんな焦躁と空虚とを覚えたのかもしれない」とは、鑑三自身の言葉である。鑑三はこうして「心の空虚」を満たすべく、「伴侶を求める自然の欲求」につき動かされて、ガール・ハントを始めることになる。「太田あてM16・5・28付手紙」には、次のような言葉がある。

 「何の目的で来たのか。何かを狩るためか。(For hunting something?)その目的なら、獲物はほとんど無くなっている。君は今では僕のただ一人の独身の友だ。ゆえにもし君が僕の敵になるようなことがあれば、僕はがっかりする。」(『日・書』5・五一頁)。

また、同年七月二五日付手紙には、次の言葉がある。

 「また、メソジストの女学校から招待された!!!!!!狩りの好機だ。(A fair chance for hunting)」(『日・書』5・五六頁)。

このマークの六つの連続に鑑三のハンティングへの熱中ぶりが表れている。「心の空虚」を埋めるべき抗しがたい自然の欲求につき動かされたハンティング。この脈絡のなかに浅田タケがおり、この脈絡の帰結が浅田タケとの結婚があった。鑑三がタケとの結婚・離婚体験に自らの罪を認めるのは、まさにこの点にあった。自分は情熱的な愛の奴隷であったと。ペンシルバニア白痴院で、太田あてに書いたM・18・3・1付手紙には、次の言葉が述べられている。

 「過つことが人の常ならば、僕は極端にそうだ。ああ!あの狂気じみた頃よ!あの時僕は、自分からわが『姉さん』と呼んだ一人の姉妹を見出して、彼女を自分の両親以上に愛したのだった!おお!サタンの謀略のうちにあったあの恐ろしい頃よ!あの時僕は、自分の情熱的な愛の奴隷であったのだ!しかもそれを神のみ心と勘ちがえしていたのだ!」(『日・書』5・一二二頁)。

鑑三が言う「大罪」とは、このことを意味していた。しかしここに大きな問題が残る。

 「僕は神に対し、両親に対し、さらに君に対しても同じように、罪を犯したのだ」(「太田あてM・18・1・19付手紙」『日・書』5・一一六頁)。

 ここには浅田タケの名前がない。結婚・離婚体験において鑑三は神に対して、両親に対して、太田に対して自分は罪を犯したと言いながら、浅田タケに対して罪を犯していないというのであろうか。

 鑑三とタケとの離婚の究極の原因は両者の中に存在した失望⇒絶望にあったことは既に論じた。

 「七二七ヲ乗ジ、怠堪ヲ尽シタレ共終ニ弟ノ意ヲ尊妹ニ通ズルヲ得ズ。」この言葉にはタケとのコミュニケーションが不可能になった鑑三の失望⇒絶望を味わった側も、失望⇒絶望を味わせた側と同様、相互に相手に対して罪を犯しているはずだ。しかも自分の目指す仕事の「車のあと押し」ではなく「ゴクツブシ」であったという失望⇒絶望の故に離縁するということは明らかに鑑三のエゴのなせる業である。タケによって与えられた「心の傷」・「大きな侮辱」を許せないのは、鑑三の栄誉心という、武士道的良心であり、それはそのままエゴイズムに通ずる。

 それにもかかわらず、鑑三はタケを精神的不貞を犯したと一方的に非難しつつ自己を正当化しようとしている。自分はタケに対する罪はないとしている。あたかも自分のエゴを隠そうとするかのように。そして、その上に立って鑑三は頑張るのである。今度こそ罪なき、義なる生活を全うしようと。罪を犯さぬ人間に脱皮しようと。つまり、罪を犯さぬ人間に自己を変革することによって、自己を絶対肯定の立場に立たしめようと努力するのである。真の回心を経験するまでの鑑三のアメリカでの生活はそれを目指しての奮闘努力の連続である。そのかぎりで鑑三は現世において自己完成を目指す武士道的精神の延長線上にいなかったか。鑑三はキリスト教に接するに及んで、「霊魂の真空」を自覚しキリスト教の教えをもってそれを埋めようとした。すなわち神と人に仕えきることによって「霊魂の真空」を克服しようとした。

 浅田タケは、鑑三にとってそのための協働者となるべきはずの人だった。たとえ「車のあと押し」というかたちをとろうと、鑑三はとにかくタケにそのことを期待した。しかし、鑑三のタケへの期待は裏切られ、その期待は失望から絶望へと変わった。タケは自分の協働者たりえないと。そして鑑三は自らの罪をタケを必要としたエロス――ハントと熱愛――にのみ求め、タケ自身に対する罪を不問にふそうとしたのである。問題はそこにある。

 タケに味わった失望⇒絶望を一方的にタケの罪にし、そうすることによって自己を正当化しつづけるそのエゴこそ、鑑三の「霊魂の真空」のなさしめるところではなかったか。それこそ鑑三の根源の罪ではなかったか。それに気づかず鑑三が自己を正当化すればするほど鑑三の「霊魂の真空」はその空隙をひろげていったはずである。そして、鑑三の罪意識は彼の心の深い層において拡大していったはずである。

 鑑三の魂はいまだくだかれていないのである。

 しかし、鑑三の精神的苦闘、罪を犯さぬ人間への自己変革の苦闘は彼の真の悟り――回心のいま一歩手前のところまで導いている。鑑三の結婚・離婚体験は、鑑三の心の深層の罪意識を拡大させつつ、鑑三の魂がくだかれるいま一歩のところにまで鑑三を導いたという、まさにその一点において意義があったと筆者はみる。

 鑑三に真の悟り――回心の契機を与えてくれたのは、新島襄の手引きによるアマスト大学での生活であり、その総長のシーリーであった。鑑三は、シーリーの次の言葉に、はたと気づいたという。

 「『内村、君は君の内をのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ、おのれに省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがないたましいイエスを仰ぎ見ないのか。君のなすところは、小児が植木を鉢に植えて、その成長を確定(たしか)めんと欲して、毎日その根を抜いて見ると同然である。何ゆえに、これを神と日光とにゆだね奉り、安心して君の成長を待たぬのか』……先生のこの忠告に私の霊魂は醒(さ)めたのである。私はこの時、初めて信仰の何たるかを教えられた。」(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」『信』23・一一九頁)。

 鑑三はアマスト大学で真の回心を経験する。

 「故国で洗礼を受けてからほぼ十年の後に、私はニュー・イングランドで本当の回心をした。すなわち向き変わったのである。主はそこで、主ご自身を私にあらわしたもうた」(『余は』『信』2・一二三頁)。

 鑑三は自分が救いの御手の中にあることを確信する。ここにおいて鑑三の「心の空虚」は埋められ、鑑三の心は平安とよろこびに満ちてくる。「霊魂の真空」は「心霊の自由」へと転化するのである。

 このとき既に絶対的自己肯定を目指した鑑三のエゴは打ち砕かれ、彼の魂は相対のひくみに安らんだはずである。したがって、鑑三はタケの自分への罪と、自らのタケへの罪のなんたるかを十分悟ったはずである。しかし、この時既に鑑三は、男女の愛のエゴイズムを越えた、二つのJ(キリストと祖国)のために尽くすという自己の使命に魂を奪われていたのである。相対のひくみにおける一瞬一瞬の実存的投企、すなわち鑑三いうところの「実験」を通じて。こうして、鑑三とタケとは再度かかわり合うということがなくなったのである。

 以上、筆者は@「両親の庭訓と藩の学塾の教育」およびA「二人の上州人との出会い」との関連で鑑三の思想形成を論じた。最後に筆者は鑑三の無教会の思想とB「上州の自然」との関連を簡単に論じて本稿をとじたいとおもう。鑑三の無教会主義の思想の形成にあっては、既存のキリスト教会に捨てられたという「体験」が決定的である。

 「しかるに余の知能の発達するに従い、余の経験の積むと共に、余の信仰の進むと同時に、余の思想ならびに行為において、しばしば、かのキリスト教先達者、この神学博士と意見を全く同じゅうするを得ざるに至れり。あるいは余の一身を処する上において、忠実なる一信徒より忠告をこうむるなり。いわく、『君の行為は聖書の明白なる教訓に反せり。君よろしく改むべし』と。親愛なる友人の忠告として、余は二度三度おのれに省みたり。されども沈思黙考に加うるに祈祷と聖書研究の結果をもってし、しかして後、友人の忠告必ずしも真理ならずと信ずる時は、やむを得ず自己の意志に従いたり。友人は余を信ずるをもってあえて余の彼が言に従わざるを怒らずといえども、余を愛せざる兄弟姉妹(?)の目より見れば、聖書の教訓に逆らいし者、キリストより後もどりせし者、特殊の天恵を放棄せし者となるに至れり。」(『キリスト信徒のなぐさめ』『信』1・ニ六頁)。

 この一文から浅田タケとの結婚・離婚体験を読み取ることは自由である。また、不敬事件後の既成教会側からの鑑三への批判・非難をさしているとも考えられる。既成の教会に見捨てられた鑑三は、その孤独のなかで真の教会の何たるかをつかんでいく。

 「ああ神の教会をもって、白壁または赤瓦の内に存するものと思いし余の愚かさよ。神の教会は宇宙の広きがごとく広く、善人の多きがごとく多し。余は教会に捨てられたり。しかして余は宇宙の教会に入会せり」(『キリスト信徒のなぐさめ』『信』1・三三頁)。

 「この世における私どもの教会とは何であって、どこにあるのでありましょうか。……神の造られた宇宙であります。天然であります。これが、私ども無教会信者のこの世における教会であります。その天井は蒼穹であります。……その公団は山の高根でありまして、その説教師は神様ご自身であります。」(「無教会論」『信』18・八七〜八八頁)。

 自然に神をみ「宇宙」を教会とするこの思想は、次のごとき鑑三のアメリカ体験と密接に結びついていたと考えられる。

 「ああ日出ずる国の安らかさと、蓮の静けさの慕わしさよ!寝ざめがちの夢路をおどろかす汽笛ならで、快き熟睡からわれらを呼びさます極楽鳥の歌声よ。高架鉄道のほこりと騒音ならで、のどかに鳴く牛に引かかる中車よ。ウォール街の投機市場の衆の代価によって建てられし大理石邸ならで、自然の恵みの中にあってたのしく満ち足れるわら屋根よ。太陽と月と星とは、金銭や名誉や虚栄よりも、より純な、よりうるわしい崇拝の対象ではないか」(『余は』『信』2・八三頁)。

 この言葉の根底には鑑三が幼少の頃なれ親しんだ「上州の自然」のイメージが確実に存在していたはずである。鑑三を育んだ「上州の自然」はこのようなかたちで彼の思想形成にかかわっているのである。

 この「上州⇒日本の自然」のイメージは、さらに鑑三の次のごとき重要思想に結びつく。 鑑三は「大和魂」とあわせて「上州⇒日本の自然」に、つまり「堕落以前の状態」をみたのである。そこから二つの質を異にするキリスト教の対比が登場することになる。

 文明に汚され、堕落の淵にある欧米のキリスト教対文明以前、堕落以前の日本的・無教会的キリスト教。鑑三はこの日本的・無教会的キリスト教に大きな期待をかけたのである。真のキリスト教を日本において再興し、それを欧米に逆輸入することによって欧米のキリスト教をその堕落から救おうと。鑑三はそうすることが祖国・日本の世界史的使命であり、日本においてその役割を果たすことを自己の使命であると確信したのである。二つのJ(キリスト教と日本)のために尽くすという鑑三の使命感は、以上のごとき内容を含んでいたのである。


文責:高崎哲学堂設立の会
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