エヴァを庵野監督の私小説として読み解くこともできる。これを推し進めると、
『エヴァは庵野監督のただの自分勝手な妄想だった』などという
ミもフタもない
解釈も成立する。成立するがそれは何も生まない悲しい解釈だろう。
エヴァが庵野監督の私小説的要素を持つことに関しては
いろいろな意見がある。その端的なものが、25,26話に対して「自己
啓発セミナーだ」との主張や、映画版に対して「悪意をまきちらすだけの作品」と
評されている点である。確かに25,26話での監督の暴走が、せっかくの作品を
台なしにしている点は否めない。
しかし、この私小説性があるからこその前半ではないだろうか? だからこそ
何かを期待して、我々はエヴァを見たのではないだろうか。
私は、別インデックスで「
エヴァの誤解きを目指した補完小説 」をアップして
いるが、はからずして、それはエヴァから庵野監暫の私小説性を排除すると
どうなるか? という作品となっている。
もしよければ、見ていただきたい。
さて、私小説として読み解くための指針として重要な
ポイントが「シンジ・ゲンドウ・加持」と、「レイ・ユイ・ミサト」の
三身一体説である。前者が庵野監督自身を示し、後者が母親を表わしていると
考えることができる。
シンジは視聴者を示すと同時に監督自身の姿でもある。インタビューでも
「シンジは退行した自分だ」などと答えているらしい。
一方、ゲンドウはある程度理想化された今の自分である。まんま
そっくり説が主流。
加持はむずかしく考える人もいるかもしれないが、素直に大学時代とかの
若い時の監督と考えると自然だろう。加持がシンジを説教している姿は
「あのときの自分にこう言えたら」という感じが見え隠れする。
レイはユイのクローンかそれに相当するモノであることは疑い得ない。
一方、ユイはレイとともに母性の象徴というところまで昇華されてしまった。
ミサトは、加持の恋人であると同時に前半での
シンジの母親役を任されている。映画版での「結局シンジ君の母親には
なれなかったわね」は、それを反映している。しかし現実に母親であったか
どうかは疑わしい。むしろ勝手に人を自分の子供扱いする「勝手に
もり上がり女」だったのではあるまいか。
映画版26話冒頭に次のようなテロップがある。
このシャシンを再び終局へと導いて下さった スタッフ、キャスト、そして、5人の女性に 心から感謝いたします。 |
ありがとうございました。 |
学生時代あこがれであった女性。今も忘れられないでいる |
自分の中にある理想の母親。あまりに理想的なので現実には存在しないかも |
セックスフレンド。学生時代からの腐れ縁、実は風俗嬢かも。彼女はべタぼれ
しているが、監督自身はイマイチと思っている
若くて元気な女性。その元気を分けてもらいたいのかも。監督は強く
思いを寄せるが、彼女は嫌がっている
声優さんの結婚事情 によると、既に離婚しているらしい
ガイナでの後輩で庵野氏を師匠とあがめる。かわいい後輩と思いつつも、監督
自身としては彼女に愛される資格などないと思っている |
最後に、エヴァ関係怪文書の一節をコピーしておく。
映画版でリリス綾波の首に亀裂が入るときに、瞬間的に入るモノの素材だと 思う。どこかで「オナニー野郎」とか庵野監督をぼろぼろけなしている 別バージョンを見た記憶があり、それが本当の素材かもしれない。
エヴァ怪文書リンク | ムネカタさんによる「マニアの受難」内 |
hasさんによる「夏エヴァ情報」内 | |
エヴァとはあまり関係のない 「怪文書保存館」内 | |
・庵野秀明 vol.2 〜初恋の人の正体とは?〜 | |
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つっこみ: |
日高のりこや三石琴乃の名誉の為に言うワケでもありませんが、彼女達はあの 葛城ミサトのような人物とは似ても似つかない人達なので念のため(笑)。ミサトと シンジのドラマは全て、庵野の「初恋の人との想い出」ではなく、彼の「楽しかった 妄想の中での彼女達との生活」である。所詮アニメオタクの考える妄想なんてあの 程度のものなのか、ちょっと女性がダメ人間を構ってくれ過ぎ(笑)。現実はそんなに 甘くなかったでしょう庵野さん?(爆笑) |
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